教室掃除

本日、久しぶりの生徒達による掃除タイムでした。
朝、早いこともあり女子4名中心の参加でしたが、
非常にきれいになりました。
次回は男子31名による大掛かりな掃除を計画しています。


 教室内 掃除 ↑

最高の笑顔でトイレ掃除をしてくれる吉野先生


センター長 小森 清敬


 

卒業生 来襲

佐川急便に就職し5年、久しぶりに学校に遊びに来てくれました。
何よりもうれしいひとときです。




イケメン 佐川男子?


センター長 小森 清敬

 

出会いと視野

この4月より次男の小学校のPTA会長になり出会い・視野が広がった。
子どもを取り巻く環境を例に挙げてもこれだけ多くの人たちが協力し、支え、
社会が成り立っている事に驚いている。
様々な人との出会いで狭かった視野が自分でも驚くほど広がっているのがわかる。
忙しさと反比例するかのように充実した日々を送れている。
つまらない日々を打破するためには、自分自身で動き何かを感じる事だ。
嫌な人・合わない人と無理に一緒にいる事はないが、
動き、行動する事で、新たな出会いがあり、必ず微笑んでくれる人と出会えると
この2か月間で実感した。
この夏、新たなチャレンジを2つする。
自分自身で動き何かを感じる為に。そして人との出会いで視野が広がる事に期待している。


センター長 小森 清敬




 

夢中の人、努力の人

夢中の人がいた。歌を歌うのが好きで好きでしょうがないという人だった。いつも歌っていて、音楽の学校にも行って、何年もプロを目指していたけれど、結局それは叶わなくて歌の歌い方を子供に教えている。一番の理想は叶わなかったけれど好きな歌を歌えて幸せに生きている。

夢を叶えたくてそれをするのか、それともそれをするのが好きだから夢を描くのか。両方を分けられるものでもないけれどバランスはある。夢中になっている人をみて努力の人は”努力して素晴らしい”と評価するかもしれない。努力か夢中かは本人の主観による。同じように外から見て主観でどちらかを判断する。

努力の人は取引をしている。夢を叶える為に努力する。夢が叶えば報われた事になる。そして夢が叶わなかったら報われなかった事になる。プロセスは結果によって評価される。未来志向で、いつも意識は先にある。頑張りきれればもちろん素晴らしいけれど、もし頑張っても頑張っても夢が叶わなかった時、あれだけやったのになんで僕は私は報われないんだという言いようの無い思いが残る。

夢中には先は無い。とにかく今ここだけがある。究極は報われなくても構わないと思っている。夢中でそれができているその瞬間が既に幸せとしてリターンを産んでいる。本当の信仰は報われなくても構わないという事ですと坊さんが言っていた。幸せになる為に信じる人は、どこかでやはり計算している。

努力で一生懸命だった時、子供時代の写真を見て夢中で走っている自分の姿を見て、ふと我に帰った事がある。好きな事をやれている、目指すものがあり日々が生き生きと輝いている、という時点で既に報われていると思った。

今この瞬間を精一杯生きている人の力は強い。


センター長 小森 清敬
 

いつも怒っている人

世の中は問題が多いし、理不尽な出来事も多い。社会の仕組みも、企業も、それから政府も完璧ではなく問題がある。また何も罪を犯していない人に辛い出来事が降りかかったり、一方で悪いことをしても何のお咎めもなしに生きている人もいる。

問題に直面した時、仕方ないよねと諦めるではなく、だったら自分に何ができるかと、問題を解決しようと頑張る人もいる。こういう人のおかげで社会は問題を一つ一つ解決してきたのだと思う。

ところが問題なのは常に怒っている人がいる事。確かに問題を解決しようとしている人の多くは怒っている。けれども怒っているのは対象に対してであって、それと個人の人生は関係がない。幸せな毎日を暮らしながら問題解決に取り掛かってももちろん問題はない。

皮肉なのだけれど、幸せそうな人には人が集まってきて、たくさんのいい仲間ができる。いい仲間はいい人を呼んできて、大きな力になる。大きな問題を解決する人はその人自身が魅力的で人を引きつけてきたように思う。いつも怒っている人と友達になりたい人は少なく、いつも怒っている人の周りにはそんな人があつまり余計に近寄りがたくなる。

いつも怒っている人は対象はなんでもよく、とにかく怒っている。遠くから眺めると対象に怒るというより、その人自身の中に怒るべき理由があるように見えてならない。それがなんなのかは外からは理解できない。理解しようと近づくことが憚られて、近寄る人は少ない。

問題を解決するとき、実は一番有効な手は、自分の抱えている問題を解決すること、ないしはそれを認める努力をすること。人は問題に対して共感するのではなく、人に対して共感する。


センター長  小森 清敬


 

日本代表

男子ハンドボール日本代表の選手が禁煙場所で喫煙した。
場所は様々な競技の日本代表選手がトレーニング施設として使用する
味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)。
日本代表選手のみが使用を許され、
近年、JOCエリートアカデミー(全国で有望な中学生〜高校生40名程度)も使用している施設。
東京オリンピックが決定し、6年後を描いている中で、日本代表選手のレベルの低さに驚いた。
スポーツ選手の喫煙は競技をするうえでマイナスになる事は日本代表選手なら(代表選手でなくても)当然理解していなくてはいけない。まして禁煙場所での喫煙。
日本代表選手が使用する味の素ナショナルトレーニングセンター(NTC)。
この施設をこの程度のモチベーションの選手たちが使用している事が残念でならない。
何の競技であれ国の代表選手は「人として」優れていることが大前提である。
国の代表とはそういうものだ。耐えられなければ辞退するのが当然の世界だ。
ある番組のゲストコメンテーターが
「何でダメなの?」「隠れタバコでここまで大ごとにするのはかわいそうだ」と言っていた。
コメンテーターとして「テレビ・マスコミに意見する立場の人間がこの程度なのか」
いう事にも憤りを感じてならない。

9月下旬から5日間、12月半ばに3日間、この味の素ナショナルトレーニングセンターで
JOC公認コーチ研修会があり参加することになった。
私たち監督・コーチがもっともっと勉強し選手達に伝えていかなくてはいけないと改めて痛感した出来事だった。


センター長  小森 清敬










 

触れてはいけない人

神経質な人がいる。目の前の人間に勝つかどうかが全ての比較の人生を生きている。自分が他者より劣っていると感じる事がたまらなく嫌で、他人を褒める事ができない。何にでも張り合い、諦める事ができない。基本的には皮肉を言っている。素直になれない。笑った時、少し顔が引きつる。

こういう人は敵か味方しかいない世界を生きている。会った途端、こちらを値踏みしている。気に入られれば徹底的に褒めるけれど、それは相手の価値観に沿っている間の話で一度でも機に食わない事があると、今度は徹底的に相手を攻撃する。好きと嫌いの間が無い。

こういう人には触れないというのが僕の人生のルールになった。一度触れて一生懸命に話そうとした事があったけれど、会話の中で彼らのプライドを傷つけないように話す事に疲れてしまって、会話をやめた。彼らには幾つもの怒るポイントがある。それをつつかないように考えながら話すのは疲れる。そして一度でも怒らせるとずっとその事を覚えている。

彼らもまた苦しんでいるのだろうと思う。自分は自分でいいという自信を得たい。他人と自分は違って、それでいいんだという心の平安を得たいのだと思う。自分で自分を客観視でき、癒す事ができ、本当は自分から始まっているのだと気づければ可能かもしれない。けれども、それはかなり難しい。自分の本当の問題を見つめる事ほど勇気がいる事はない。

世の中にはやり過ごした方がいい事がある。触れてはいけない人を変える事は難しい。変えようとして頑張るその時間も、限られた自分の人生の貴重な時間。触れてはいけない人の恨みは、表面に見えているものよりずっとずっと深い所に原因があると私は思う。


センター長  小森 清敬


 

第1回 レポート作成

第1回 レポート締切日が5/13でした。
3年生の数学が難しく自力での作成が困難という生徒からの多数の意見により、
締切日の午前中、3年生を対象に数学担当の吉野先生がスクーリングを兼ね、
レポート作成授業を行いました。


   ↑  席は満員御礼状態でした。



センター長 小森 清敬

 

正確な罵り方

インターネットというのに触れてからずっと他者の罵る時の言葉がどうにも気に食わない。批判や罵りはある程度しょうがないにしても、その時の言葉の選び方をちゃんと考えた方がいいと思う。

例えば馬鹿という罵り方がある。インターネット上でよく名指しで馬鹿と罵られている人は比較的世間一般よりも高い学歴や経歴、ポジションを持っている事が多く、確かにいくら学歴や経歴がよくても馬鹿な人もいるのかもしれないけれど、ある程度の競争を勝ち抜いた人達に馬鹿な人(何を持って馬鹿とするかだけれども)が混じっている確率は低いだろうと推測できる。確率的に考えてそういう罵りは効率がわるく、何しろ言っても相手が馬鹿ではない証拠を見つけてしまいすっきりしないことが多い。

罵りの効能は、自分がすっきりすること、この一点に尽きる。批判は発展を望むのもあるだろうけれど、罵りは自己の快楽しかない。だとしたら、なるべく短時間かつ少ない労力でこの快楽を得るようにすべきだろう。うまくいかない罵りは長引く。

一体本当は何を罵りたいのか。これがピンポイントではまらないことにはすっきりしない。だからこそ本当に自分が言いたかった事をしっかり言葉にする訓練をしなければならないと感じる。”あなたは間違えてる”は→”君の考え方が気に食わない”だし”あの人が傷ついているじゃないか”は→”僕の気に入らないことをするな”だし、太宰治に言わせれば”世間が許さないのではなくて、それはあなたが許さないのでしょう”だろうと思う。

不思議なもので、人間は何に自分が怒っているのかに気づけると頭がすっきりする。よくわからないけどむかつくという状態が一番厄介で、自分が何にむかついているのか言葉にもできず、整理もできないのでいつまでたってもむかつきがおさまらない。人間は意思決定をする場所にも体力があると言われていて、他に気になることがあるとその領域が食われて、意思決定の質が落ちるのだそうだ。だからこそ早めに的確に罵って、自分の頭から余計なものを排除するべきだろうと思う。

罵りもちゃんと正確に自分の感情を表現することができれば、時間をあまり費やさず気分を晴らすことができ、随分と経済的になる。そうすれば罵られる側もしつこくやられず一回で済む。そういう意味でお互いのためにも、また社会の生産性を高めるためにも、罵る側は作法として正確な表現を心がけるべきだろうというのが私の考えだ。

センター長 小森 清敬

 

直感は正しいか?

直感は正しいのか、間違えているのか。人間はさほど完璧ではないというのが行動経済学の原点らしいのだけれど、一方でroboticsの世界の話を聞いていると達人の直感を再現するのが如何に難しいかと語られる。

カクテルパーティー効果というものがある。パーティーの最中目の前の人と会話をしている時、周辺の会話は聞こえてこない。ところが、後ろの人間が自分の名前をだし噂話を始めた途端、後ろの会話が聞こえてくる。ここで浮かび上がる問いは、では会話は聞こえていたのか聞こえていなかったのか。聞こえていなかったのなら、なぜ自分の名前は聞こえたのか。聞こえていたのならなぜそれまで頭に入ってこなかったのか。意識的に聞こえているという領域はあまりにも狭い。

脳梁を切った患者に対し、右視野(左脳)と左視野(右脳)に言葉を見せて、対象となるカードを引かせる実験がある。言語をつかさどる左脳が反応するために、右視野にシャベルと出せばシャベルが書かれたカードをとる。ところが左視野にシャベルと出しても患者はそれがシャベルという言葉だとわからない。中には言葉自体が見えないという患者もいる。ところが当てずっぽうでいいからカードを取ってくれと言われたら、えいやと確か7割程度の人がシャベルが書かれたカードをとる。

意識的に聞こえている見えているということと、意識されないけれども見えていて聞こえているということ。見えた、聞こえたと意識するものだけが本当に見えているものだろうか。もし、これまでの人生で意識されないけれども経験してきた、無意識の経験が積み重なったとして、その無意識の経験からくる経験則的な答えを私たちはどう認識するのだろうか。私たちは私たちが経験してきたことの一部しか知覚していないが、無意識の領域も含めれば膨大な経験を蓄積している。

私が私と認識している領域よりも私の範囲はもっと深遠な広がりを持っている。その私も知らない深遠な私の領域から出てくる経験則的な答えを直感と呼ぶのだと私は考える。競技をやっていて、まず先に体が実現してしまうという事がある。私はおしゃべりだから、あとでなんだかんだとそのできてしまった事に理由をつけて、最もらしく説明する。ある専門性が習熟されきった世界では論理は直感をそれっぽく伝えるために存在するのではないか。


センター長 小森 清敬


 


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