失敗に原因を求める事

失敗から学ぶということは大切なことで、その姿勢があるかどうかで随分と成長の度合いが違うと思う。スポーツ選手で良い選手は必ず失敗または敗北を分析し、何が問題だったかを探し出し、自分なりに解決方法を見つけている。それは大前提として、もう一方で負けたんだから必ず何か問題があったんだろうと考えすぎてドツボにはまることがある。

例えば陸上競技でスタートして一歩目から頭を上げてゴールを見ながら走っていた選手が、もっと地面をしっかり押したいと考え、8歩目あたりまで頭を下げてスタートダッシュをするやり方に変える。ある程度練習してきていざ本番になって走ってみたら以前よりもタイムが悪い。選手は慌てて元に戻す。

新しい技術というのは馴染むまでに時間がかかり、それまでの時間ではパフォーマンスが落ちることがある。その落ち込みが技術が根本的に合わないから起きているのか、それともただ馴染んでいないから起きているのかはわからないが、あまりに神経質になりすぎると、馴染む前に元に戻してしまうことになる。不振を無視できないと根本的な技術変更はできない。

また、人間には揺らぎがあって、いい時も悪い時もある。そしてその理由を考えても、今日はそんな日だったというぐらいの意味しかない時もある(という思い込みの可能性もあるが)。ところが真面目に失敗の原因を考えようとしている人は、必ず何か理由があるはずだというところからスタートしてしまい、何か問題を見つけずにはいられなくなる。思い込めば問題はいくらでも見つけられるので、本当の原因かどうかわからない問題にアプローチしてしまい、何かを変えて余計にスランプにはまってしまうことがある。

失敗から学ぶことは大切だろうと思う。けれどもその失敗は一時的なただの揺らぎなのか、根本的に何かがずれているのかをしっかりと見極めることがまず必要だろうと思う。ふてぶてしい選手が崩れにくいのは、失敗を無視するふてぶてしさを持っているからで、真面目な選手ほど学ぼうとしすぎて、誤学習を起こしてしまったりする。

雨が降れば傘をささなければならないが、にわか雨を豪雨だと勘違いして登り道を変える必要はない。

特に私たち指導者は気を付けないといけない。


センター長 小森 清敬



 

前期試験 スタート

本日より前期試験がスタートしました。
初日1限目は毎回空席が目立ちますが、今回は満席です。
3年生のS君は何と3年目にして初の初日1限目受験でした。
ONとOFFの切り替えが日頃から出来ている証拠です。





センター長  小森 清敬

 

タブレット 導入

いよいよ生徒一人ひとりにタブレットが届きました。
早速、10月提出分のレポートを作成し始めました。(生徒)
先ずは吉野先生が操作方法を完璧に?マスターしようと勉強中です。


↑ 真剣な眼差しでタブレットを使用する
  ミスターこと吉野先生

センター長  小森 清敬

 

心の勝負

どんなスポーツでもレベルが低いうちは身体能力や技術の方が勝負に影響するけれど、レベルが高くなってくるとそういったもので差がつきにくいほど力が拮抗してくるので、当日のパフォーマンス発揮率というものが勝負に影響してくる。かなり乱暴に身体能力と技術と発揮率を説明すると

98(身体能力+技術)×100%(発揮率)=98(勝負強い)

100(身体能力+技術)×95%(発揮率)=95(勝負弱い)

と言えると思う。勝負強ければ普段の実力は劣っていても、結果として勝つ確率が高い。陸上競技は言ってしまえば4年に一回の五輪と2年に一回の世界陸上さえ取ってしまえばあとは負けていてもチャンピオンである。反対に全部勝っていたとしても本番に負けてしまえば敗者となる。だから勝つべき時に勝てる方が圧倒的にいい。

さて勝負の時に、なんらかの理由で崩れてしまう人が勝負弱い人だと思うのだけれど、一体その時に心の中で何が起きているのだろうか。

勝負弱い人は決して勝つ意欲がない人ではないと私は考える。むしろ有り余るほどの意欲があり、うまくやろうとする意思もある。ところがその意欲がむしろ空回りして自分の動きを制限してしまう。勝負弱い人はつまり”うまくやろうとしすぎる人”である。

うまくやろうとしすぎる人は、自分に対しての期待値が高い人で、そういう人は意識的すぎるほど自分を意識している。うまくやらねばならないという思いが、自分の動きの一つ一つをまるで審判のようにジャッジしてしまい、結果として全体のダイナミズムがなくなり動きが小さくなる。卒業式で人前で歩く時、普段は意識をしていない腕や足や表情を意識してしまってぎくしゃくする、あれである。動きは意識されない時がもっとも自然に動く。

勝負弱さをどう克服していいのか私にはわからない。私も勝てない時に一番難しかったのは”忘れること”と”意識しないこと”だった。勝負に負ける時は、どこかに自滅の側面があった。自我と自意識が強ければ強いほど期待値が高ければ高いほど、自滅しやすいと私は思う。

生粋の勝負師の心境はわからないけれど私が意識していた勝負時の心境は、ある種の諦めに至ることだった。いつも小学生だった時の自分を思い出し、今自分が持っているものは全部かりそめだと思うようにしていた。元々何もなかったんだから、今はバーチャルな舞台の上みたいなもので、どうなってもいいんだから思いっきり演じてやろうと走る時に夢中になれた。

勝負事は心(気持ち)が大切であることはもちろんだけれど、もっとシンプルに簡単に考えられればと思う事が多々ある。
勝負事に限らず、日常生活も「なるようにしかならない」と思うようにしている。
心の勝負とは「余裕を持つこと」で、「ダメな自分も受け入れる事」それに尽きる。


センター長 小森 清敬


 

しょうがない

祖母は時々”しょうがない”と口にした。僕が子供の頃、高熱で危なかった時”しょうがない。もう一人産んだらええ”と早々に諦めの言葉を発した人だ。祖母は昭和の世に旅人と称する人に旅のお金を工面したりと、人に渡すことやあげることの方が多い人生を生きてきた。その度にしょうがないと言っていた。

しょうがないは諦めの言葉だと思う。納得いったわけではなくても、もうどうにかしようとしたってどうにもならないわけだから踏ん切りをつけようとしている時に出る言葉で、自分の中で全部えいやと後ろに流してしまおうという意味合いが強いと思う。

なんでもかんでもしょうがないで流してしまって、ちっとも考えない人もいるだろうし、しょうがないとも思わずに生きている人もいると思う。一方でしょうがないと言えなくて苦しんでいる人もいるように思う。忘れられない人、諦められない人、許せない人。

しょうがないが多い人生は、ダメな人生かもしれないが、本人の中には少なくとも深刻な悩みがない。なにしろしょうがないと言ってしまって流してしまうのだから溜まっているものがない。阿呆に見えるかもしれないが、少なくとも今を生きてはいる。

ところがしょうがないが言えない人生というのもあってこれは辛い。なにしろ過去に起きた何か自分に引っかかっていることがずっと流せないで心に残っている。あの人が許せない、どうして自分ばっかりに、あれさえあればもっと幸せだったのに。過去に悔やんでいることがしょうがないと流れていかない。

執着の強い人間にとって(私もそうだが)しょうがないは最も意志力がいる。しょうがないと流した後はそれを振り返ってはならないと自分に誓うわけだ。これはなかなか根性がいる。しょうがないと言われたってそんなこと到底納得できないと思っていても、ある時しょうがないで無理やりそれを後ろに流してしまう。それは結局自分の意志の力でしかない。

しょうがないの真髄は、執着しないことだ。執着とは滞ることだと思う。


センター長  小森 清敬


 

あるがままを受け入れるという事

よくあるがままを受け入れるしかないという話をすると、それじゃあ現状の問題は何も解決されないし社会はよくなっていかないじゃないか、という意見をもらう。この辺りは微妙で、実際に仏教でどう解釈されているか、社会でどう解釈されているかわからないけれど、私にとっての認識を書いておきたいと思う。

まずあるがままを受け入れることは、あるがままを受け入れているわけで、現状を肯定しているわけでも否定しているわけでもない。石がそこにあるなという世界と、なんであの石は角ばっているんだという世界。サバンナでシマウマがライオンに食べられましたという世界と、ライオンに食べられたシマウマがかわいそうじゃないかという世界。あるがままの世界には善も悪もない。あるのは善も悪も私(自分)が決めている。

一方現状肯定の方は、現状は如何ともしがたいから自分の認識を肯定的に変えることで不条理を受け入れましょうという考えだと私は認識している。つまり、現状を変えるのは困難である→だから捉え方を変えることで対応するしかない→現状に対してどうこう思い、どうこうしようとするのをやめて肯定的に捉えればそれなりの幸せが訪れる。これが現状肯定だと捉えている。確かに現実の不条理に屈服する、または蓋をする形なので、こういう人ばかりでは世の中は何も良くならないし、実は腹の底に不満が溜まるばかりだというのはよくわかる。

あるがままを受け入れるというのは、そもそも見る人がいなければ悪も善も、この世界すら存在しないという立場にたつことだと思う。私がいなければ私にとっての世界はない。一方現状肯定は否定すると辛いから肯定する方向に変えようという眼鏡の架け替えだと思う。眼鏡をかけていることに気づいたところから始めましょうという世界と、眼鏡の架け替えによって対応しましょうと違いではないか。

あるがままを受け入れるということは、まずそのままを一旦受け止めようということだと思う。その上で、ここが重要なのだけど”私”がすべきだと感じることをする。世の中のあるべき形に近づけるのではなく”私”のすべきだと思うことを成す。なんだ結局同じじゃないかと言われるかもしれないが、私はこの二つは違うと思っている。世の中はひたすらにそのままなのだけど、すいませんちょっとだけ自分の価値観を反映させてくださいねという世界観。

世の中は不条理で不公平で、生まれてすぐ死ぬ子もいれば、庭から石油が出ている人も、善いとされる行いをしながら病気になる人も、悪いとされる行いをしながら健康に生きる人もいる。ああそりゃそうだよな、さてその上で自分は何をしようか。あるがままを受け入れた後の行動には恨みつらみがなくひたすらに淡々とした世界が広がっているのではないかと、私は想像する。


センター長 小森 清敬

 

平成27年度 ニッセイ財団 贈呈式


平成27年度 ニッセイ財団 贈呈式(静岡県庁)に出席してきました。
式では児童・少年健全育成の部での表彰を受けました。



センター長 小森 清敬


 

個の実力

以前の世界と違い、実社会では実力がはっきりと見えにくい。自分の周りで仕事が進んでいくけれどそれが誰の力によるものかがわかりにくい。また相手がこちらを尊重するのが肩書きだからか個人に向けてのものかもわかりにくい。

よく大手の会社を辞めて独立した人が最初に苦しむ話を聞く。仕事を行っていたのは実は会社の力が大きくて、個人になると急にそれがなくなるから大変になるという話。確かにそれはあるだろうと思うけれども、一方で会社の力を上手く使いながら仕事をするやり方が上手だったのかもしれない。

ただ実力があるにせよないにせよ、自分の実力が如何程なのかという感覚は大事だろうと思う。本当は自分の力ではない仕事を自分の実力だと勘違いしてしまって気がついたら実力的に劣っていて追いつけなくなったということもあるだろうし、本当はもっと上で勝負できる人が自分を過小評価して力を発揮しないで暮らすのかもしれない。どういう状況であれば自分は実力を発揮しやすく、どういう状況に弱いのか、どんな能力がありどんな能力がないのかがわかれば、戦いやすさも全く違う。

私の場合は自分の実力をわかる為に、肩書きのない個として集団でどう振る舞えたかということと、その時の自分を客観的に見れることが必要だった。

一言で言えば、個として何かをすることが大事だろうと思う。特に肩書きや自分の立場を一旦脱ぎ捨てなければならない状況を作ることは自分の実力を知る上で重要だ。実はセカンドキャリアもこれが関係していると思っていて、アスリートという肩書きがない状態の自分の実力をアスリートは知らない。セカンドキャリアにはいずれ消えていくアスリートという肩書きに依存しない実力をいかに早く身に付けるかが、自信を獲得する上でも大事だと思う。

一方、定年を迎えたビジネスマンも、自分の肩書きがない状態の活動を事前にしておくのが好ましいのではないか。肩書きがなくなった時のあの不安感と対処法は経験しておくといいと思う。

私個人の実体験で言えば、能力は如何ともし難いとしても、集団に貢献する意識を持って機嫌よく人に接していれば、個としてはそれなりに重宝されると思う。


センター長 小森 清敬


 

能動な生き方(人)

高校生たちと話をしてよく、人生を主体的に生きるということはどういう事なのかを考えている。能動的に自分の人生を生きようと私はよく口にする。

能動的に生きるということは自らの人生の先手をとるという事だと思う。例えば質問があるとする。一番最初の一言目を言う人になろうとするかどうか。シーンとした数百人いる空間で一番最初に質問できるかどうか(勇気を出して)。人間の行動を支配しているものの大部分は習慣からくるものだと思う。能動的な人は習慣を把握し、それを変えようとする。

能動的に生きていても組織の下にいる場合もあると思う。けれどもその人は選んでそこにいるのだと考えている。いない事も選べる中、あえて選んでそこにいるのだと考える。いや、そんな事はないそこをやめてしまえば生きていけないから仕方なくそこにいるのだという人もいる。人生には制限がつきもので、その制限の中でも選択肢はなお残っている。そして能動的な人は選べない選択肢ではなく、選べる選択肢の中からあえて自分の意志でそれを選ぶ。

能動的に生きるかどうかは、賢さや、知識量の問題ではなく、勇気の問題だ。自分の行動が他人からどう思われるのかを気にしすぎている人は、能動の人になれない。したい事ではなくすべき事に縛られて行動が決まっている。選んでいるようで選んでいない。幼少期から続く常識的な振る舞いに縛られて行動をしている。能動的でない人は、常識的な振る舞いを選ぶわけではなく、それしか選べない。

私たちは相当、制限がかかった人生を生きている。そもそも生まれた人種に制限され、生まれた国に制限され、言語に制限され、能力に制限され、親の収入に制限され、その国の文化的常識に制限され生きている。それらは習慣として体に刻まれ、何も考えずに生きれば習った通りに考え動く人生が待っている。

能動の人は、リスクをとる人である。いつもと違う事をしてみる人である。そして、その場の何かを自分から変えてみようとする人である。能動の人は行動をし、行動によって機会を得て、その機会によって自らを変える人である。

センター長  小森 清敬

 

定通制 静岡県陸上大会

定通制 静岡県陸上大会に参加しました。


男子100m 決勝  5位入賞 ↑


男子 5000m 2位入賞 ↑


男子 走り幅跳び 9位 ↑


男子 4×100mリレー 決勝 4位入賞 ↑  ↓

 


生徒達は頑張ってくれました。

<全国大会出場者>
男子5000m 小谷田君(2位)
男子100m 栗田君(5位)リレー選手

以上、2名の生徒は8/12〜8/15 東京駒沢陸上競技場で行われる
全国大会に静岡県代表として出場致します。

センター長  小森 清敬


 


精華学園高等学校 清水校

清水校 在校生連絡

こもり不登校・ひきこもり相談室

精華清水RC(陸上クラブ)

21世紀型寺子屋『小森塾』

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