秋季定通制 陸上競技静岡県大会

秋季定通制 陸上競技静岡県大会に清水校3名の生徒が出場しました。

 

 男子100m 決勝に何と2名の生徒が勝ち上がりました。

 4レーン T君  7レーン K君

 

 男子400m 決勝で力走するK君  ↑

 

結果・・・100m4位入賞・走り幅跳び3位入賞 T君(左)

  ・・・100m5位入賞・400m3位入賞 K君(真ん中)

  ・・・走り幅跳び5位入賞 H君(右)

 

 

来年 春の大会は3人とも全国大会出場を目指し、

毎週月曜日・水曜日・金曜日の陸上競技の練習に汗を流しています。

 

 

小 森 清 敬

 

 

 

 

 

 

 

 


警戒をしている人

妙に警戒をしている人が世の中にはいる。警戒をしている人は、常に自分はだまされないか、また馬鹿にされていないかという意識で日々を送っている。

私の考えの出発点は”世の中がそうなのは、そのように見ているからだ”というものだ。感じることができなければ、色も光も物体もその人にとっては存在しない。そこに木があるのではなくそれを目という器官で認識するから木がある。すべての情報は受け止めきれない。人は意識的か、無意識的か、自らの偏りを通じて世の中を捉える。

警戒をしている人は、危険な目に合うことや、人から馬鹿にされることを嫌がる傾向にあると私は思う。何かを手に入れることよりも、何かを失わなかったということを重視する。警戒をしている人の荷物は多い。身軽さよりも、何かあった時にこれを持っていてよかったという安堵感の方を求めるからだ。

警戒をしている人は、警戒をしている対象を、他の人以上に捉えてしまっている。山道で熊が出るぞと散々脅されたことがあって、その時は向こうに見える石一つ一つが熊にみえたものだ。警戒をしなければ、危険な目にあうのでそれは大切なことかもしれないが、山登りの喜びを感じるには、ある程度警戒からの解放も必要ではないか。

警戒をしている人の最大の目的は”やり過ごすこと”になる。人生を何事もなくやり過ごす。評判を落とすことなく生活を営む。しかしながら、警戒をし続けてし続けて無事、何事もなく人生を終えられたとして、一体人生のどこに喜びがあったのを振り返ることになる。その時、どの光景が頭に浮かぶのだろうか。

ふとあるがままに世の中を見てみれば、大体のことがなるようになる。なるようにしかならない。そして人生は生まれて生きて死んだらおしまいで、他の人の人生にとって何かを残すことはできるのかもしれないが、私にとっての私の人生は死んだらそこでおしまいである。

私は人生は道中しかないと思っていて、つまり行為そのものが人生なのだと思う。警戒はせっかくの今ここの行為から意識を外に飛ばしてしまう。毒が入っていないかと警戒するのもいいが、勢いで口の中に放り込んでしまって饅頭を味わったほうがいいじゃないか。雨が降れば傘をさせばいいと松下翁もおっしゃっている。

 

 

小 森 清 敬

 

 


嫌いな事と一体感

世の中のグループを見ていると、いくら多様性が大事とはいえそれは仕事や社会全体の話で、実生活レベルでは価値観が似通った人といるほうが落ち着くわけだから、似た価値観の人が集まりやすいように思う。ではこの似た価値観は一体何で判断するかというと、実は嫌いなものではないかと私は考えている。

こんな生き方はしたくないよね。こういうことを人はするべきではないよね。それらが共有されていると、いちいちグループの中で話題を出したり、行動をするときに、自分の行動は規範に反していないかとチェックをしたりする必要がなくなる。泥酔することを微笑ましく見るグループと、人前で泥酔するなんてと見下されるグループでは、酔っ払いの私は居心地の良さがずいぶん違う。

嫌いなことや許せないことというと、何か判断が難しいと感じるが、おそらくほとんどの嫌いなことは人類で共有されていることだろうと思う。例えば子供を殴っている人がいたらそれを皆許せないと思うだろうし、殺人も許せないことにあたると思う。ところが徐々に”人の話を聞かないなんて許せない”とか、”派手なことが嫌い”とかが出てきて、そうなると個別に違いが出てくる。

ピダパンという特殊な言語を扱う民族について書かれた本を読んだが、一番の制裁は仲間はずれだそうだ。ぼんやりと民族内で漂う規範(法律がないので、なんとなくの空気)を著しく外れた人は、その後みなでまとまって食事をしている際に食事が回ってこなくなる。そしてじきに村を離れるのだけれど、大概は一人では生きていくことができず早めに寿命を終える。私たちにも似たようなことを恐れる感覚があるように思う。

この共同体内で嫌われることは何かを都度確認するのに、一番手っ取り早い行為は例を見ることだろう。誰かがわかりやすく社会的に嫌われていたり叩かれている姿をみて何はしてはならないことで、これをやったら排除されるのだということを学ぶ。

ちゃんと圧力がかかった状態では、子供達は”いわゆる”正しいことを言う。小学校の頃、道徳の授業で戦争はよくないことです答えが決まっている作文をクラスの人間全員で書いた。うなずいている先生を見て、答えがあっていたんだとほっとした。ああいった答え合わせを繰り返し私たちの(表面上の)価値観は形成されていくのだと思う。一方それにうまくはまれないような人間は、人生のどこかではみ出てしまうか、取り繕いながら生きていく感覚になるか、うっかりはみ出て排除されてしまうことになる。いじめはそういった側面があると思う。

 

 

小 森 清 敬

 

 


エリート選手

アスリートの不祥事が起こるたびに、メディアでなぜそんなことが起こるのかという意見が出るけれど、実際の所スポーツをやったから極端に善人になるわけでもないので、世間一般の確率と同じぐらいでは不祥事が起きてしまうのだと思う。ただ、スポーツ選手が少し認識不足なのは、公人として扱われているので、普通であればスルーされるような出来事も(今回の賭博はスルーされないだろうが)スポーツの場合は表に出るということだろうか。

スポーツ界の内部の空気を言えば、エリートの選手たちは戦うために育てられていく。世の中が見たいのは選手が勝つ姿であり、ひたむきに頑張る姿であるわけだから、それにひたすらに没頭せよという空気が出来上がる。協会に入るお金も基本は強化費として入り、強化費というぐらいだから選手強化のために使われる。良いコーチを招聘し、選手を海外で転戦させ、経験を積ませる。特に昨今はエリート教育を始めたから中学生の段階でこの意識が高まっていく。

この空気は選手だけではなく、指導者、そして協会の人間も共有している。そもそも、スポーツ界の組織では関係者が、元選手であり、引退後もずっとその世界で生きている人が多数で形成されていることが多い。勝った負けたが私たちの存在価値になる。

世間を見渡すと、教育というのはもう少し広く行われる。無駄な経験を積みながら、友達とわいわいやりながら、プロジェクトを進めながら、だんだんと大人になっていく。ところがエリート選手はこのプロセスを通過しない。ひたすらに勝負の世界一点を生きていく。そうなるとどこか大人びているのだけれど、どこか子供っぽいところがある人格になっていく。視野を狭めて目標を絞り込みそこに向けて一直線に向かう日々を10数年過ごすのだから当たり前かもしれないが。私はそれをうまく使えばとても優秀な人材になれると信じているが、一方危うさもあるのだとも感じる。

どなたかが教えてくれた言葉だったが、こんなものがあった

”私たちは人間を兵士にする方法は手に入れたが、未だ兵士を人間にする方法はわかっていない”

選手を強くしていく方法はこれからも洗練され、ますます加速していくだろう。一方で戦うために特化された人を、社会に適応させるための方法はどうしていくのだろうか。

 

 

小 森 清 敬

 

 


人生が終わるライン

「人生終わったな」という言葉をよく言う人がいて、一方で一見終わったような状況でもそう思わない人がいて、いったいその違いはなんだろうかと考える。

例えば、会社をクビになっただけで人生が終わったと思う人もいるし、不祥事が明るみに出たり、自己破産して人生が終わったと思う人もいる。一方で逮捕されても人生が終わったと思わない人もいれば、アウシュビッツで家族もみんな殺されて自分もいつ死ぬかわからない状況で人生が終わったと考えない人もいる。総じて、「あいつの人生終わったな」とよく言う人は、人生が終わるラインが高いのだと思う。

人生が終わるラインが高い人は、こうでなければ生きていけないというラインが高い。ある一定の収入がなければならないし、日本に住んでいなければならないし、友達からも一目置かれていて、尊敬されていなければならないと思っているとしたら、それは確かに人生が終わるラインは高くなる。その内のどれかが失われることは誰にでも起こりうる。

私の周辺にも数人、どんな状況でも自分の人生は終わらないと考える人がいる。こういう人は、人生が終わるラインが恐ろしく低い。というより文字通り死ぬまで人生が終わらないと思っている。私も平均よりは低いとは思うが、全くレベルが違うほどラインが低い。だからなんというか、印象として恐れがない。

人生は終わらないと考える人の人生は簡単に終わらないのだから、本人にとっては安心感がある。安心感があるというのは現状を維持できる自信があるのではなく、仮に持っているものがなくなっても生きていけばいいという覚悟がある。人生が終わらないための必要条件が多い人ほど、いつそれを失うか怖くてしょうがない。

人生は死ぬまでは終わらない。もしそれより早く終わるのであれば、それはそうでないとならないと自分で決めている基準によって決まっている。人の自由を奪うのは、その基準である。これがないと生きていけないというものから人は自由になれない。

こうでなければいけないという自己イメージが強い人ほど、人生が終わるラインが高い印象があるが実際はどうなんだろうか。

 

小 森 清 敬 

 

 


第51回 全国定通制陸上競技大会 (静岡県大会)

 

第51回 全国定通制陸上競技大会(静岡県大会)に出場しました。

 

 4×100m 決勝 4位  ↑

 100m ゴール後  ↑

 3000mSC 障害を越える ↑

 走り幅跳び ↑

 3000mSC 3位入賞 

 全国大会出場を決めました。

 

 

 小 森 清 敬

 

 

 

 


楽しく人生ゲーム


レポート提出も終え、楽しく人生ゲームを楽しみました。


 笑顔・笑顔・笑顔の生徒達  ↑   ↓


 
 小 森 清 敬




 

カナダ バンクーバー留学生

5月15日からカナダ バンクーバーへ留学中のS君よりカナダの画像が届きました。
S君はこれまでの自分を変えたいという想いで日本を飛び立ちました。
2日目、早速の試練が訪れました。
「怪しいおやじからお金を奪われた」日本でいうカツアゲです。
更に、別の日、迷子の中、携帯の充電が切れパニック!
必ずこの経験はS君の今後の人生に役立つはずです。







 S君からの写真掲載


 小 森 清 敬





 

新入生 S君の手料理

5月29日(日)釣りたての魚(カンパチ・鯛)を自分で捌き、
学校に持ってきてくれました。



美味しくいただきました!


  小 森 清 敬 

体育活動

5月24日(火)毎週恒例の体育活動を実施致しました。


 サッカー部? 集合写真  ↑

 グランド 散水 by吉野先生  ↑

 サッカーの試合 1・2年生 対 3年生

野球で汗を流す  ↑


楽しい1日でした。



小森 清敬



 


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